唐丹の天然スレート葺き
by Chiba
わが家の屋根は平たい石で葺かれていて、子どもの頃は「周りの家と違うなぁ」と思っていた。
何かの拍子に割れて落ちてきた石は軒下に片付けられ、これが近所の友達と石けりをして遊ぶときに活躍した。
私たちの石けりのルールでは、50センチ四方くらいのマス5個を2列描き、マスに順に石をすいっと投げ入れてから、石のあるマスを飛ばしてケンケンでマスを回る。スタート地点に戻ると、2段目のマスに石を投げる。
マスに石が入らないと、ケンケンに入れず、1回休みになる。3段目くらいはなんなくマスに入れられるが、4段目あたりからは、少々技術がいる。平たい石は転がらないので加減しやすく、重宝したのである。
屋根の石が「スレート」というものだということは知っていた。母がそう言っていたからだ。
後年、民家についての冊子を編集する仕事をしたときに、天然のスレートが宮城県北部から岩手県南部の三陸地域の特産品であり、天然スレート葺きの民家は全国的にも珍しいことを知った。
美しい質感、優れた耐火性・耐水性が屋根材に適しているとされ、明治の洋風建築に盛んに使われていたという。1908(明治41)年着工の東京駅や1911年に落成した盛岡銀行本店(現・岩手銀行赤レンガ館)の屋根にも使われている。
母から、スレートの屋根は、この辺ではわが家と「ミズカミ」だけということも聞いた。
水上家はオットセイ漁でアメリカ・メキシコに出かけて成功し(*1)唐丹で「財閥」といわれていた家だから、そこと同じ屋根は、ちょっと自慢だったのだろう。
しかも戦前の漁師の家にはあまり見ない2階建て。屋根のテッペンには洒落た飾り角柱まで載っている。
もちろん、わが家は資産家ではなく、田畑は家族が食べられる分くらい、山林少々、小さな船で海に出る漁師である。
この家は、1933(昭和8)年の昭和大津波から3年後くらいに建てられた。海岸近くの家が流され、高台移転して再建したものである。
なんという早さ! 2011年の東日本大震災後を見ても、漁師が3年で自宅を再建するのは、たやすいことではない。
実はわが家は、1896年の明治大津波でも家が流され、曾祖父は身重だった新婚の妻を亡くしている。高台に家を再建、再婚して子どもたちに恵まれたが、そこを1913年の大火が襲った。わが家のある小白浜地区の焼失家屋は150戸中141戸(*2)。その1戸だった。
この時は、子どもたちがまだ小さく、被災後、海に近い納屋で生活するしかなかった。
昭和大津波の頃には、長男である祖父は「人の年収を1日で獲る」といわれるほどのアワビ獲りに成長し、弟は高給で知られた水上家のオットセイ船(*3)に乗り込み、太平洋を渡っていた。もっとも、村の取決めで、流出した小学校の再建費用を捻出するため津波後の10年間、祖父は月給制でアワビを獲ることになったが(父・談)。
庭に残る桜の切り株は、昭和の大津波の翌年、祖父が唐丹村青年団の一員として旧国道沿いに植えた苗木の名残りである。